2015年2月14日土曜日

ここに愛がある


オープン礼拝では、絵本「天の笛」を朗読付きの映像で見ました。


「ヨシ、ぼくが行こう!」


雪に覆われてしまった大地で、次々と死んでいく仲間を救おうと
一羽のひばりが太陽に挑んでいきます。


物語を通して、本当の勇気とは何か、真実の愛とは何かを教えられます。


また、友のために命をかけたひばりの姿と、イエス・キリストの十字架の姿が重なります。


「友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はない。」(ヨハネ15:13)


「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:9,10)














2015年1月4日日曜日

新たに生まれる

元旦礼拝、新年最初の聖日礼拝は「新たに生まれる」をテーマにみ言葉が語られました。



イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」・・・「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
ヨハネ3:3,5,6
 
 
 
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。Ⅱコリント5:17
 
 
 
 
わたしたちが新たに生まれるために、キリストは十字架において、わたしたちのすべての罪を背負い、身代わりに死んでくださいました。神は愛です。
 
 
 
 
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハネ3:16
 
 
 
 
「神は愛なり」 Ⅰヨハネ4:16
 
 
 


2014年12月15日月曜日

わたしたちを愛して


14日(日)はクリスマスのオープン礼拝でした。



聖歌隊と子ども達の合同で、クリスマスの聖誕劇を、わたしたちのためにお生まれくださったイエス・キリストに心を込めて捧げました。



礼拝堂一杯に神様の愛が満ち溢れたように感じました。



沢山の方々がおいでくださり、良かった!感動した!と口々に言いながらお帰りになられる姿が印象的でした。



イエス様、わたしたちのためにお生まれくださって、ありがとうございました。



「神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、世を(わたしたちを)愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠の命を得るためです。」(ヨハネ3:16 リビングバイブル参照)


2014年12月8日月曜日

神は我々と共におられる


アドベント(待降節)第2週



礼拝では、羊飼いの礼拝の箇所が語られました。



ルカによる福音書2章8節~20節

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアで   ある。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。



救い主誕生の知らせは、ベツレヘムの郊外で野宿していた羊飼いたちに告げられました。



王でもなく、祭司でもない。誰よりも神様から遠く離れたような羊飼いたちに、喜びの知らせは届けられました。



彼らは貧しさゆえに、神様なしにはひと時も生きていられない人たちであり、神様を最も必要とする人たちでした。



羊飼いたちは、言ったことでしょう。
「こんなわたしのところにも、救いがやってきた。」
「こんなわたしのことも、神様は愛してくださった。」



お生まれになった救い主イエス・キリストを礼拝した彼らは、実感したことでしょう。
神は我々と共におられる、と。



この喜びの知らせは、2000年の時を超えて、あなたにも届けられています。
もし、あなたが神様を必要としておられるなら、羊飼いの経験した喜びは、あなたのものとなるでしょう。



「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ1:23)







2014年12月2日火曜日

キリストをいだく

アドベント(待降節)が始まりました。



礼拝で語られたみ言葉はこちら。



ルカによる福音書2章25節~32節

 2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
 2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
 2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
 2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
 2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」



メシア(救い主)との出会いにシメオンは人生をかけました。
神の御心に沿った願いに神は応えてくださいました。
ついに、彼は救い主キリストと出会い、その感動は頂点に達します。



人は何に人生をかけるかによってその人生の価値がある意味決まってしまう。



わたしたちは何に人生をかけるでしょうか?



2014年10月26日日曜日

ものの本質を変える

礼拝で学んだ聖書の言葉をご紹介

ヨハネによる福音書2章1節~11節

 2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
 2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
 2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
 2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
 2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
 2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
 2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
 2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
 2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
 2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
 2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


イエス・キリストは、今日も尋ねておられます。


「水をぶどう酒に変え、ものの本質を変えることができる、わたしは誰か」と。


この問いに対する答えが、わたしたちの人生を大きく変えていきます。
あなたは、なんと答えられるでしょうか?









2014年10月3日金曜日

命の有るものと無いもの
















今日の聖書講座では、マタイ福音書シリーズ27 マタイ9章18節~19節、23節~26節を学びました。


指導者(会堂長、ヤイロ)の娘の復活の出来事です。



一般的に死は、人生に終止符を打つもの、人間存在の崩壊・自失と考えられています。



でも、本当の死とは、人間の心(霊魂)に命がないことです。



聖書にも、生きているというのは名ばかりで、その実死んでいる、という言葉があります。



良い例をご紹介しましょう。
有精卵と無精卵のことです。



どちらも見た目は変わりませんが、温めてみると大きく違います。



有精卵は、温めると雛がかえりますが、無精卵はどんなにあたためても雛がかえることがありません。命の有るものと無いものとの違いです。



わたしたちの霊魂に命があるならば、人生において、どんな逆風が吹いても、それに立ち向かうことが出来ます。でも命がなかったならば、その力はありません。



あなたの心(霊魂)は生きているでしょうか? 命があるでしょうか?



イエスが指導者の娘を復活させられたこの奇跡は、イエスは人の心に命を与えることのできる、命の神であることをわたしたちに教えます。



「この方(イエス・キリスト)こそ、真実の神、永遠の命です。」(Ⅰヨハネ5:20)